研修でひとを変えるのは無理(でもやる)
「普段何やってるかまじでわからない」といわれがちなあたくしですが、たまに企業研修でよばれたりしています。
いろいろな企業さんで研修をさせてもらってつくづく思うのですが、研修でひとを変えるのは無理です。
数時間、あるいは数日間の体験でひとが変わるようなことがあればそれはほとんどドラッグにちかい。そういうことを期待しているのであれば、それこそひとを使いつぶすようなことだなあと思います。
研修なんてものは、限られた時間でどうにか別の世界が存在するということの一端を見せられるかどうか、というくらいのことじゃないかしら。少なくともあたくしはそういうふうに理解をしているし、そのことは、もちろん事前に何度も説明をします。けれども、それでもあえて、企業の皆さんがあたくしのようなよくわからない立場の人間に依頼をすることがある。
はっきりとはわからないけれども、それはまさに「変身願望」とでもいうような、企業の、いまの現状にたいする焦燥感がそうさせているのだと思います。彼らはずっと「なんかやべえな」って思ってる。けれども、いまはなんかやっていけてる。
まあ、この状況はたしかに「なんかやべえな」ですよね。
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ところで、あたくしが研修をするにあたって、いちばん重要だとおもっているプロセスがあります。それは「あたくしが研修をやるということを社内で納得させる」というプロセスです。
興味深いことですが、はじめてのお仕事は、あたくしに依頼がくるタイミングで研修の機会が決まっていることがほとんどありません。なにか、「こいつに研修をやらせてみよう!」みたいな空気が生まれ、そのための場をセッティングするところからはじまります。とてもありがたいことです。
で、その社内調整、予算の確保、上司の説得、これがまあ、とにかく大変そう。しかし、これこそがあたくしに依頼をする醍醐味だよな、と思いながら見ています。
むしろ、この調整さえ進めることができれば、研修の本編なんてほとんどおまけのようなものじゃないかしら。だんだん、「どうしてこんな苦労をして俺はこいつに研修をさせようと思っているんだろう?」みたいな気持ちになっていく人もいます。
あたくしもそう思います。
その自問自答の先には、素晴らしい体験がまっているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにしても、その行動をとる選択をしたのがまぎれもないあなた自身であるということが、とても尊い。
あたくしがやる本編は、演劇だったり舞踏だったり仮面のことですが、それ自体は多くの企業にとって直接関係のない事象です。それが必要だという確信のもと、あたくしの存在を社内において納得させるというプロジェクトそのものが、すでにタフだし政治的なものです。
その政治的なもの、社内における個人や部署の立場を問い直すプロセス。そうしたことがけっきょく、すこしでもひとを変える手助けになっているのかもしれないな、と思います。
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あたくしの大好きなアートプロジェクトに「搬入プロジェクト」と「引き興し」があります。
「搬入プロジェクト」は劇団悪魔のしるしが行っていたプロジェクトで、ある空間にぎりぎり入るであろう構造物を設計して搬入するというもの。
「引き興し」はアーティストの加藤翼さんが行っているプロジェクトで、大きな構造物を大勢の人たちで文字通りゆっくり動かす作品です。
どちらもアートプロジェクトとして非常に完成度の高い作品です。
こうしたプロジェクトと単なる研修を並べるのは気が引けますが、間接的に似た事象を引き起こす装置として機能している面があるのではないかな、という風に思っています。あるいは、あからさまといえばあからさまですが、プロジェクト型作品として世界的な評価を誇るクリストの作品群などにも影響を受けている面はあります。
いずれにしても、あたくしの場合は単に研修であるので、そのことが重要だし意義があるものだと考えています。
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これからも、また誰かに呼ばれることもあるでしょうし、いっしょうけんめいやってくれているひとを眺める日々です。