“できない”ことの積極的選択としてのジュエリー

「できる」「できない」という言葉を並べると、「できない」という言葉にはなんとなくネガティブな響きが混じっているような気がします。

でも、あたくしはすごく「できない」ということに惹かれます。できることより、できないことを増やしていきたいとさえ思う。

 

できるようになることは、逆説的に「できない」を増やしていくことなんじゃないか。積極的な選択としての「できない」には、わずかにでもポジティブな響きが伴っているように思えます。

 

あるいは、「できない」ことを積極的に引き受けることって「できない」んだろうか。

やる・やらないではなく、あえて「できない」というのは、その場限りの行動の選択ではなく、一時的にでも、身体的に「できない」ことを引き受けるという態度をこそ尊重したいからです。

 

※ところで、不可能性としての「できない」ことはもちろんあって、そのこととは別のことを考えたいですね。なにをどうあがいてもできないということは単に不可能な事象なので、そうではなく選択として「できない」をする、ということ。


ハイヒールのことを考えるんですけど、ハイヒールは「歩けない」ことを選択した靴ですね。あえて、歩けない靴を履くことが自身を肯定してくれる。こういう、身体拘束的なおはなしだと、たとえば纏足とか、首長とか、はっきりとは肯定されない文化が関わってきて、それはそれとしてネガティブなイメージもまとっていたりするんですけども。

 

とはいえやっぱり、ハイヒールを履くということ、決してネガティブなだけのものではなく、ポジティブな選択だ(そうあってほしい)と思うんですよね。
あるいはあらゆるジュエリーも、基本的にはできないことを増やしていく作業なんじゃないかな、という風にも思えるんですね。指を拘束し、首に輪をかけて、耳に重りをつけて、身体への負担はどんどん増えていく。ピアスを外した時の何とも言えない解放感、感じたことありませんか。

 

そのうえで、それらの装飾品は自分のからだを圧倒的に肯定してくれるものです。そうした肯定は、宝飾の輝きもそうだけども、あえて「できない」ことの選択を身にまとう態度の中にこそ、あるんじゃないかな。



ここ数年「ものをつくらない」ということを活動の指針としていて、あらゆる仕事でものをつくらず、単にいるとか、少しだけしゃべるとかといったことだけを大切にするようにしています。

 

もちろん、あたくしは技術的にものをつくることが「できない」わけですけども、それはこれまで、常に選択の結果としてあったのだなと考えています。そして、そうした「できない」ことの選択という態度だけが、お仕事にあたくしを呼んでいただける理由なのかな、と思うようになりました。

 

「できない」を増やしていく。

 

これってけっこう、楽しいことかもしれないな、と思っています。