表現が(ほんとうに)きらい

おどっているとか、演劇をやっているとか、あるいは「お店をやっています」といったことをお伝えすると、よくこんなふうにいわれます。

 

「ああ、表現活動をしているんですね」
「すごい!表現者だ!」

 

これ、めちゃくちゃ嫌なんですよね。

どのくらい嫌かっていうと、肥溜めでジャーマンスープレックスかまされるくらいには嫌です。 

  

大学生のころに、舞台の批評に関する講義を受けました。そこでは、舞台というものは基本的に一度きりの体験なので、まずは事実を正確に把握することを手続きとして踏まなければならない、といったことを教えられました。

構成が何部であるか。観客の入り具合。ダンサーが何人いて、動きはどういったものであったか。内容に関してもまず「幕が上がり、舞台中央にピンスポットで照らされた赤いドレスの女性が肩幅に立っている。目線は観客のほうを向きながらゆっくりとしゃがみこんだ」などといった事実を把握することを前提とします。

そうした手続きを前提としなければ、舞台の印象、効果や意義について語ることはそもそも批評たりえないでしょう。なぜならそのとき感じた印象は確かに事実によって構成されていて、それを成立させる背景を正確に共有できなければ、それは単なる感想文にしかならない。確かにその通りだと今も思います。

 

どうしてこの話をしたのかというと、冒頭のようなシチュエーションで「表現」という言葉を聞くとき、「ああ、このひとはあたくしのやっている行為をちゃんと把握しようとする気がないのだな」という態度を強く感じるからです。つまり、人がやっている行為の把握をあきらめた態度についてまわる言葉としての「表現」なのじゃないかなあ、と思うんですね。

もちろん、ひとに対して、「表現」という言葉を当てはめ(たくな)る気持ちもわかるんですよ。けれども、そのことが、ひとをあるカテゴリに分類しようとする以上の意味がないということには、もっと自覚的になったほうがいいんじゃないかしら。

意外とひとは、「おどっています」とか「演劇をやっています」ときいたとき、たんに「おどっているのだなあ」という事実を把握できない。表現だとかそうじゃないとかの前に、あたくしはまずおどっているのだけれど。人とかかわろうというとき、そうした事実の把握が何よりもまず大事なんじゃないかなあ、とあたくしは思います。

 

世の中にはいろいろな理由でいろいろなことをやっているひとがいて。たとえば見た目が同じことをやっているふうに見えても、思想や手つきがまったく異なるということがありますよね。

あたくしはそういうことをこそ大事にしたいなあと思って生きています。

だとすれば、そうした細かな事実をひとつずつ確認していくことでしか、かかわり方のきっかけすらつかめない。自分が見えていることの、ほとんどが幻想にすぎないのかもしれないのに。

 

何かをしている。そのことをまず事実として認識する。それがなければ、ひととひととの会話なんて、思っている以上に浅はかなものなんじゃないかな。

 

 

※おなじような理由で、「本質」という言葉を多用するやつ、ほんとうに苦手ですね。