『物語は人生を救うのか』
せんじつ、千野帽子『物語は人生を救うのか』 を読みました。この本は、同著者の『人はなぜ物語を求めるのか』の続編でもあります。(ちくまプリマ―新書です。あたくしは筑摩書房推し。)
いわゆる物語論の概論としても読める2冊ですが、どちらも読みやすい文体ながら示唆に富んでいてもりもりテンションが上がる本でした。
とくに「フィクション」・「嘘」・「間違い」の違いについての解説は、はっきりとした見解を示しながら論を展開しており、これらの概念を(意図的に)混同する言い回しが芸風のあたくしとしては耳が痛い部分もありました。
「事実は小説よりも奇なり」という一般的な言い回し、誰でも聞いたことがあると思いますが、この言葉について論じた節がありました。ルーツといわれる原文をあたると「事実(fact)」ではなく「真実(truth)」だそうですが、いずれにしても事実(真実)はだいたいの場合小説よりも奇なり。というか、事実よりも奇なりな小説は「ダメな」小説であって、一般的にはよい作品として受容されないという事情があるようです。
小説、つまりフィクションは、そもそも事実よりも「ほんとうらしい」ことを常に要請されている。確かに、フィクションの設定が「ほんとうらし」くなければ、説得力のない話になり、多くのひとは興味を失ってしまうでしょう。いっぽうで事実(真実)に関する表象(つまり、ノンフィクション)は事情が異なり、それが「ほんとうのこと」であればあるほど(あるほど?)、「ほんとうらしくない」ことのほうが「報告価値がある」とみなされる。シンプルに興味深い話だなと思いました。(「ほんとうらしさ」は「必然性」と読み替えられます)
1960年代を駆け抜けた寺山修司は現実にフィクションを侵食させるのが上手な演出家でしたが、2019年にいたってはもはや、そうしたやりかたはずいぶんと一般化しました。むしろ、現実がいよいよ「ほんとうらしい」ものとなり、いつもどこかでフィクションの風情すら感じる。そうした時代に生きているのだなあ、と思います。現実はフィクションのように確かに「ほんとうらし」く、まるで「物語のよう」。物語の質は、若干低下している気がしないでもないけれど。、
同著には、フィクションとは「約束ごと」であると書いてありました。それも、たかだか二千数百年のあいだにたまたま成立した危うげな「約束ごと」です。考えてみれば、人間社会なんてものはこうした危うい「約束ごと」の集積でしかない。きわめて恣意的に、あるいはたまたま成立しているだけの「約束ごと」を、あたくしたちはどこか自明のものと思いこんでいる。
ところで、もちろん「現実はフィクションではない」のだけれど、フィクションという「約束ごと」は現実であって、フィクションではない。だから、あたくしはこの「約束ごと」がとても好きです。
世の中にはこうしたたくさんの「約束ごと」があって、それを自明のものと錯覚することで、ひとびとが心の均衡を保っているのじゃないかな、というふうにあたくしには見えます。だからこそ、あたくしはそれを揺らしたり、組み替えたりして遊びたい。ちょうど、こどもがその場で思いついたゲームのルールをどんどん更新していくみたいに。そういう態度があたくしの人生の「必然性」であると「思い込んでいる」から? いや、単に楽しいからですね。
そう、現実、めちゃくちゃたのしい! んです。