大川原脩平が仮面をかぶらないいくつかの理由

ほんじつは、仮面屋として活動しているあたくしがどうして仮面をかぶらず、素顔をさらしているのかというおはなしをします。

あたくしはじっさい、かなりの数のひとに「どうして仮面屋なのに仮面をかぶっていないんですか?」ときかれます。お会いするひとの中には、仮面屋と聞いてどんな奇抜な人物が現れるのかと思っていたら、あたくしがあまりに地味な格好をしているのでびっくりする方もいらっしゃいます。

たしかに、仮面屋の一般的なイメージは、素顔を隠して怪しげな風貌でたたずんでいるというものなのかもしれません。

250px-Paul_Fürst,_Der_Doctor_Schnabel_von_Rom_(Holländer_version)Wikipedia。ペスト医師。

しかしながらあたくしは、仮面というものの特徴を考えるに、ある単一のイメージに自分を固定することが、仮面屋としてあたくしが訴えたいことを揺るがしてしまうのではないか、という危惧を持っています。

仮面は一時的にでも顔を固定し、そのひとのアイデンティティを規定するものです。
あたくしが「仮面屋」というあるビジュアルイメージをつくり出してしまうことで、そのイメージが仮面というもの自体を方向づけてしまうことになる場合がありえるのではないでしょうか。

たとえば、日本の面といえば能面がもっとも有名ですが、能面はすでに、ある意味で日本のアイコンとなってしまっています。こうしたアイコン化にもっとも寄りやすく、つかいやすいものの代表として「顔」や「面」というものがあり、それは仮面屋をやるうえで最も気を付けなければならない事柄の一つだととらえています。

あたくしはしばしば舞台で仮面をつけることがありますが、こうしたとき、あたくし自身の存在は仮面屋として意識されることはほとんどありません。それは「仮面をつけたキャラクター」や「異形のモンスター」であり、仮面屋おもての店主ではないからです。

そのように、あたくし自身のアイデンティティが仮面屋としてあることの問題としても、いろいろの仮面をつける機会は選ばざるを得ないのです。

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これまでもたびたび書いているように、あたくしの関心が幅広い意味での仮面にあるということも仮面をかぶらない理由のひとつとしてあります。いくら素顔をさらしているからといって、そのひとの仮面的な要素が剥奪されるということはまずありません。あたくしたちは常に仮面とともに生きているのです。そのうえで実際に仮面をかぶるという選択は、逆説的に仮面を外すことでもあり、素顔をさらすことだといってもいいかもしれません。

そのようなオープンな行為ができるのは、安全の保証された空間や場がただしくそこにあるからだともいえます。その意味で、仮装イベントなどは非常に素晴らしい働きを持っているのだと思います。ただ、あたくしは現状、仮装イベント等にプライベートで行くことはあまりないため、純粋にオープンな状態を体現するのはやはり舞台の上になるのだと思います。

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それから、非常に大きな理由として、あまりにたくさんの仮面が周りにあって、どれをかぶったらよいのかわからないということがあります。

着る服を決められないおじさんのようですが、それでもやはり、服を着ることをはじめとしたある種の行為が、なにかしらの表現である場合が往々にしてあることを考えると、たくさんの仮面の中から一つを選んでしまうことの決断は、それほどラフに決められるものではありません。仮面屋のあたくしが何かの仮面をかぶることがなんらかのメッセージを発してしまう(可能性がある)という意味で、最近は意識的に仮面をかぶらずにいることが多いです(まあ、かぶったら外せばいいだけなんですけど)。

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ここまで書いてきて、何かと理由をつけて仮面をかぶろうとしない自分の気持ちを反省する機会にもなりました。

多くのひとにとって、揺らぎ続ける自身のアイデンティティは恐ろしいものですが、仮面屋のあたくしにとっても、アイデンティティを変化させるという行為はやはりこわいものなのかもしれません。