人形遊びのつたなさと、愛情の行方
年末の差し迫った時期に仮面屋で開催したKANG HYEONGSEOK個展「誕生日;私は性善説を信じない」が終わりました。
Kangは以前、仮面屋で初めて展示をしたアーティスト鷲見友佑の搬入を手伝いに来たひとで、なんとなく展示をやる流れになったのでやりました。あえて仮面屋で展示をやるということの意味はずっと考えていかなければならないと思う一方で、フィーリングはめちゃくちゃ大事です。「あ、これはやるかんじだ」という気持ちは何よりも優先されるべきです。
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しばらくあたくしの関心によって人形の話題が続いていますが、Kangは人形作家というよりも「人形を素材にする」アーティストでした。骨董市で集めてきたある種の「ガラクタ」をベースに、欠損した部位を別のマテリアルで再生したり、逆に切り刻んで蝋を詰めたりもします。
一見すると暴力的とも思えるこうした人形への関わり方、何かに似ているなと思っていたのですが、展示の経過を見ながら「ああ、これは(子供の)人形遊びだな」と得心しました。
映画「トイ・ストーリー」では、男の子が人形同士の頭を付け替えて女の子を泣かせてしまうシーンがあります。ほとんどいじめに近いとも思えるこうした行為も、自分の子供のころを振り返ると身に覚えのない人はいないでしょう。
これが、暴力であるかどうかという議論にはほとんど意味がありません。愛されて大事にされてきた人形ほど、ぼろぼろに擦り切れて薄汚れていくものです。展示をみた方の「愛情を感じた」という言葉は、Kangの行為が単なる猟奇的な趣味とは全く離れたところにあることを示していると思います。
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人形遊びは、宿命的に洗練されることのない時間のありようだな、と思います。あるいは、あらゆる遊びがほんとうはそういうものかもしれません。洗練されることのない、そのつたなさこそが遊びのいちばん尊いところなのではないかしら。
あたくし自身もつられて人形遊びをしてみました。まったく小器用には動かせないものの、確かに豊かな時間の萌芽を感じました。
こういう時間が永遠に続くといいな、とはもう決して思えない頭になってしまいましたが、つたなさこそが愛情につながるのだとしたら、あたくしたちはいつもどこを目指して進んでいるのでしょうね。