できることを教えることができない。

半年くらい前に、メンバーが主に高齢者で構成されている即興劇団「くるる即興劇団」にお呼ばれして、ミニパフォーマンス&レクチャーをしてきました。

 

◆くるる即興劇団とは…
2015年7月7日に結成された、日本初の高齢者インプロパフォーマンス集団。
千葉県柏市豊四季台団地をメインフィールドに活動中!
パフォーマーの年齢は、68歳から92歳!!
公式サイトより)

 

くるる即興劇団のみなさんには以前もワークショップで呼んでいただいたことがあり、そのときは舞台上でのからだの扱い方などについてのレクチャーを行いました。

今回は「柏くるる即興劇まつり」と称し、2日間にわたってさまざまな催しを行う企画でした。あたくしはミニパフォーマンスということで呼ばれたのですが、おどることそのものよりも、全員がフラットにかかわりつつ刺激を受けられそうということで、主にマイムについてのレクチャーを行いました。

 

ひとによばれるときというのは、いろいろな形式があり、それぞれがそれぞれにおもしろいものだなとかんじます。ワークショップ、研修、レクチャー、講義、パフォーマンス、レッスン、などなど。言葉の意味するところの微妙な差異によって、やろうとすることの意図がぜんぜん違う。

そんなことを考えると、はたして「どういう呼ばれ方をするのか」というのが、いちばん大事なことなんじゃないか、とさえ思います。

いいかえると、自分自身の役割がその場においてどのように規定されているのか、ということかもしれません。

あたくしはわりあい真面目なので、呼ばれ方に応じて期待されている役割をしっかり果たそうとしがちです。あるいは、期待された役割からどのように逸脱すれば、その場に設定された意図を達成しつつ違和感を残しえるか、ということを常に意識している気がします(これはほとんど性分にちかい)。

なので、なにかしらの依頼を受ける際、うかがう場の意図や必然性みたいなものがことさら気になるのですが、そのあたりが「なんとなく」で成立していると、非常に動きづらい。あたくしがその場に存在する必要がなければ、必要がないですからね。

今回も、そんなことを考えつつ、ふた組のパフォーマンスに挟まれながら、なにがいったいこの場をたんなる地域のお祭り以上のものにするのかな、ということを考えていました。

 

 

ところで、いつも感じるのですが、自分が「できる」ことを教えるのって、すごく難しいことだなと思います。今回は結果的にマイムのレクチャーらしきことをしましたが、そもそもあたくしはマイムの専門家ではありません。それでも、マイムについて「できる」ことを「教える」ということを、ひとつのチャレンジとしてやってみたものです。

たとえば通常は、構造を把握し、言語化して伝えようとすることで、ひとに何かを届けることはできようと思います。あるいは、自分が(未だ)「できない」ことや、学んでいる最中のことでも、そうしたプロセスは可能(というか、より鋭敏にできそうなきがする)だと思う。けれども、そうしたことと、自らのからだを通じてすでに「できる」ということとは、あんがい離れているものだと思いませんか。

 

わりあい、ひとは、「できる」ひとに教わろうと思いがちですが、「できる」ことと、「教えられる」ことのあいだには、思っているよりも大きな溝があるように感じます。

 

なにかを「教え」て、あるいは「できるようにさせ」て、結構な数のひとがそうしたことをごはんの種にしたりしていて。

ああ、ひとになにかをやらせたり、なにかを聞かせたりすることはほんとうにそれ自体が楽しいことなのだろうなあとおもったりして(ひねくれてるかな)。

 

そうしたことをすべて悪くいうつもりも、良くいうつもりもありませんが、なんとなくみんな「できる」ことを「教えられる」と勘違いしているふしも、ないのかしら。

あるいは、「できない」ことを「できる」ようにならなければ、なにかを得たことにはならないのかしら。

 

 

引退した競技者を教育現場にぶちこもうとする動きなんかを見るにつけ、教えるということは常に軽視されている分野だな、と感じます。

べつに教育者みたいな立場ではないものの、教えることはそれ自体がエンターテイメントなので、気をつけすぎるくらい気を付けなければいけないものだよなあ、と思います。