お金の媒介としての私
先日、友人で哲学をやっている佐々木くんがTwitterでつぶやいた言葉に非常に感銘を受けました。
たぶん、根本的に捉え方が違うのは、お金が何かと私の媒介なんじゃなくて、私がお金と何かの媒介なんだよな。
— Koya Sasaki (@lspandc) December 6, 2019
佐々木くんは大学院で「ドゥルーズのスピノザ解釈の研究」をしていて、哲学者として法人の監査役を任されているという非常におもしろい人です。たびたびハッとするような文章を書くからか、むしろ直接会うと話し方がすごく軽薄な気がしてとてもよいです。
あたくしは経済やお金についてまともに学んだことは一切ないので専門の考え方があればぜひ教えてほしいのですが、佐々木くんの一連のツイートは、あたくしがお金について日ごろから感じている感覚に非常に近いものでした。
「お金が何かと私の媒介なんじゃなくて、私がお金と何かの媒介なんだよな。」
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通常「お金を使う」ということを素朴に考えたときは、なにか物質を等価で交換したり、欲しいものを得るために使うというイメージがあるんじゃないでしょうか。
お金というもののメディアとしての側面には、そういった非常に強固なイメージがまとわりついています。皆、お金を介して交歓をはかろうとしたり、豊かさを得るためにお金を介したりする。そうした行為はむしろ推奨されるほうが一般的ではないでしょうか。
けれどもいっぽうで、お金が人と人をつなげているというより、「私」がお金をつなげている(媒介している)という捉え方も、非常にしっくりくるような気がします。
いちばんはっきりとそれが感じられるのは寄付ですね。寄付をするときには、まさに「私」を介してお金が媒介されているとしかいいようのない感覚があります。そうしたお金の「使い方」をこそしていくと、シンプルによいなという実感があたくしにはあります。
つまりお金そのものを自律したひとつの流れとしてとらえたときに、それを媒介する「私」がなにをそこに接続することができるのか。それは、接続する対象に半分は依存するのであって、「私」を介するということ以上の意味をそこに入れこまないほうがいい。そうすることで、お金がまさに自律していく、生きていくとでもいうようなイメージが沸き起こってきます。
このように考えてみると、単に自分でお金を使うという瞬間が、むしろとてもエキサイティングなものに変化するような気がしませんか。
たとえば、絵画を買う「私」は、画廊とお金の媒介として機能する。
たんに経済活動といえばそれまでですが、このことが認識されたとき、「私」はたしかにメディア化しているのであって、ある個人の意思のもとに買い物をしたという以上の意味合いがここに含有されうるのではないでしょうか。
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お金の話題、決して得意ではないのですが、いろいろと無視できない存在ではあります。
美術作品(のようなもの)を売買する仕事をしていると、作家にとっての一番の関心ごとのひとつはお金のことです。ディーラーという立場でご相談を受けるとき、よく聞かれるのが作品の「値段の付け方」です。
自分の作品がどのくらい市場価値があるのか、あるいはアートとしての価値とは本来的にどういうものなのか。作品を客観的に評価するのは思った以上に複雑で難しいことです。
そこで、年末に「作品の値段を決める」というテーマでトークイベントをすることになりました。美術商の岡田真太郎と仮面屋の大川原脩平という座組みで、アートと作品にまつわるお金の事情を赤裸々に語る予定です。
アートとお金に興味のあるかたがいらしたら、ぜひお越しくださいませ。
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トーク【作品の値段を決める】
日時:2019年12月28日19:00~21:00
場所:うそのたばこ店(台東区浅草橋3丁目4-2)
料金:3,000円
定員:15名(増席の場合は立ち見)
※ご予約はPeatixにて。
登壇者
・岡田真太郎
美術商(現代美術)。主な担当作品に渋家《オーナーチェンジ》、現在の価格は5億円。この作品の試作として不動産関連の維持管理技術や契約を素材として捉え、伏見地下街(名古屋)で不動産所有し価値化、取得価格の10倍以上でのオファーを受ける。
・大川原脩平
舞踏家。㈱うその代表取締役。現代作家の仮面を扱う専門店「仮面屋おもて」、たばこのふりをしてトランプを販売する「うそのたばこ店」などをしている。「ものをつくりません。ゆっくりやります。ひまです。」