「人形劇はまじでやばい」がまじやばかった話。
ゲンロンカフェで開催されたトーク、大山顕×菊地浩平「人形劇はまじでやばい」を観覧してきました。人形劇、だいぶやばかったので浅学を恥じつつやばいなと思ったことを書きます。
大山顕さんはずいぶん以前いっしゅんだけメールでやり取りしたことがあったのですが、すごいしゃべる人でしゃべりすぎだなと思いました。(めちゃよかった)
この企画は早稲田大学演劇博物館の「人形劇、やばい!」展に関連して行われたもので、同展示を併せてみるとなにがどんな風にやばいのかよりわかるようになっています。小さいスペースですが、おすすめです。
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内容ですが、縦横無尽に人形にまつわる話題が飛び交うものでした。タイトルにひきつけて考えると、大きく2つの「やばい」話と理解しました。
1.人形劇はもともとやばいもの。
2.人形劇へのリテラシーが低下あるいは批評性が受容されなくなっててやばい。
まず、人形劇というものがそもそも「人形に語らせることで「他愛のないもの」として受容される」という特性を生かした極めてアイロニカルな芝居の形式であったということが示されました。それは戦中戦後の思想啓蒙にも巧みに利用されたし、逆に体制批判の活動としての機能も持ったということ。
大政翼賛会宣伝部編「人形劇叢書」『人形劇のすすめ』
これだけでいろんなことがよくわかる。、
素朴に人形劇ときいただけではちょっと考えられないイメージですが、その「なめられ」こそを非常にうまく使ったのが、他ならない政治結社だったというのは驚きでした。これはたしかにやばい。
そして、そんな「かわいさ」と「政治思想」を暗黒合体したみたいな芝居の形式としての人形劇が、いまや子供向けの(むしろ昔からそうだったのだが)テレビ番組ですら「上演されない」ということ。これがふたつめのやばいです。
トークでは90年代くらいまでテレビで放映されてきた貴重な映像資料を見ることができたのですが、どれもたしかにやばい。極めて直接的に政治家を揶揄したような映像もあり、「ちょっと今じゃ考えられないですね」という感想が思わず出てしまう。そのこと自体がやばい。(そしてどの映像も見た記憶がある。、)
いまや、連続テレビ人形劇の枠はないし、人形同士がわがままに言い争ってる姿とかはなかなか日常的に見られない。、
しかし、形を変えて人形劇として捉えうるもの、あるいは別の形で発展を遂げているものについての示唆もあり、非常に有意義なトークでした。
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極めて近接領域であるにもかかわらずほとんど無知のままだった自分を恥じるきもちもあり、非常に簡単にではありますがまとめてみました。やばいやばい言ってて語彙がやばい。
さいきん、どういう巡りあわせか、仮面屋でも人形をつくっている若手の作家が展示を始めています。個人的にはなんだか人形に背中を押されているよう。
やばい気持ちをどうにかする意味もありつつ、作家の展示をいいことに人生で初めて「人形劇」をやってみることで諸々の整理をしようと思いました。10~20分くらいの試作です。
よければどうぞ。
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人形劇「怪傑!バナナにんぎょう」
2019年12月25日(水)19:00-(20分程度)
@仮面屋おもて
観覧無料
※仮面屋おもてで開催されているKANG HYEONGSEOK個展「誕生日;私は性善説を信じない」の関連企画です。