絵はわからないし残らない。

「絵」ってなんだかわからなくないですか。

 

より正確にいうなら、「絵」って「絵」である以上のことがわからない。

 

よく「この人はギャラリーをやっていて」なんて紹介されると全力で否定するのだけど、「絵」を売っているギャラリーのひとはすごい。あたくしには絵は売れないな、と思う。「絵」はほんとうになんだかわからない。

 

現代アート入門みたいな本では、一般的に「絵」の歴史の更新こそがアートだと言われたりもするわけですが、それってけっきょく誰もわからないってことじゃないのかな。

 

あたくしが絵画をみたときに、いちばん素直に出てくる感想として「絵だな」っていうのがあるのですが、それ以上のことを読み取ろうとすると「絵」というのはまったく難しいなと思います。仮面のほうがまだわかるような、そうでもないような。

 

 

相沢僚一はたぶんまさに「絵」の人で、おもに支持体(絵の具を当てる対象)をあれこれして「絵」というものの更新を企てているのだな、と感じます。植物や、つぶれた空き缶(もともと「絵」が印刷されているし、薄い!)に「絵」を描く行為は、絵画の世界の超スタンダードな戦いかたであるような気もするし、たんなる逆張りにも見える。主にアニメのようなキャラクターを描いているわけだけど、植物は成長するから、そのうちキャラクターも伸びたり枯れたりする。

 

 

二次元のキャラクターも一般的に成長したり、死んだりするけど、相沢の作品を見てると三次元的に、物質的にも死ぬことがあるんだよと言ってくる。そして、わりとそういうものをひとは欲しがったりする。

 

思えば、植物屋さんだって枯れることをわかっていながら売ったり買ったりする。なくなるものを欲しがるのはむしろ人間らしいのかもしれない。

 

キャンバスに描かれたおおかたの「絵」も、たぶんなくなる。

 

けれど、「絵」でもなんでも「これを残したいな」「残していくべきだな」というひとがいると、どんなにフラジャイルな物質でも長い間残されたりする。それこそ、数百年、数千年単位で。そういうのも人間らしい行為だなと感じる。

 

残したい派と、残したくない派がいるのかはわからないけど、もしかしたらそういう派閥もあるのかもしれない。残ったものや、残らなかったものをハイエナのように嗅ぎまわる立場としては、どっちもやれやれという気分です。

 

 

  

「絵」を描いている、あるいは何かをつくっているひとは、どこかに「残したい」という欲求があるのかしら。なんか、世界はもうめちゃめちゃに物であふれている気もするし、ぜんぜんスカスカの空洞みたいな感じもある。そういうことも関係なく、手が動いて「絵」を描いてしまうのかしら。

 

相沢は仮面屋のスタッフでもあります。営業中もカウンターの裏でずっと「ゲームしかしてない」ので、どうやって絵が生成されているのかは永遠の謎なのですが、とにかく「絵」はあります。きっと描いているのでしょう。

 


 

相沢僚一 MILD EXHIBITION『ゲームしかしてない』
2020/1/11-2/2
12:00-19:00(土日のみ開場)
入場無料
仮面屋おもて(墨田区京島3-20-5)