「小さい」ということの偉大さ。

まさに「おどること」もそうなのですが、とても小さく、それこそ誰ともつながらない部屋で一人でやるようなことがすごく大きな力を持つし、世界にとって意味があるんだというようなことを伝えていきたい気持ちがあります。

 

基本的に、何かをひとに伝えたいという思いの希薄なあたくしですが、この「小さいことの偉大さ」あるいは「強さ」みたいなものは、唯一ひとに伝わってほしいとおもっている価値観かもしれません。

 

たとえば、地面に立つこと。

たとえば、指輪をつけること。

たとえば、部屋で写真を撮ってみること。

たとえば、いつもよりゆっくり歩くこと。

 

この、ほんの些細なある個人の行動、あるいは「動作」とでもいうべき小さい出来事こそが、ほんとうに偉大なんだということを知ってほしい。

 

 

あたくしは青森の田舎の、そのまた郊外の山奥で育ちました。いってみれば、極端に小さくて、偏った世界の中で過ごしてきたんだろうと思っています。なにもみえないし、外部というものの存在も知らない。特に、幼少が不幸だったということではありません。けれども、ともかくきっとすごく小さな世界で生きていた。

こうした中では、例えば親や友人に支えられたというひともいるでしょうし、インターネットに助けられたというひともいるでしょう。あたくしは根暗でしたが、友人もいたしネットもやりました。ただ、それらがあたくしを肯定してくれたかというと、必ずしもそうではなかったように思います。

 

そういう世界であたくしができたほとんど唯一のこと、それこそが、前段のようなほんとうに些細な「動作」や「行動」だったんだと思います。

 

じっさい、なにもたいしたことはできないものです。座っているから、立ってみる。そのことが世界を変える。視点が変わって背が高くなり、角度が変わる。こういうことにあらためて気づいたとき、それ自体がほとんど奇跡的な出来事なんだろうと感じました。

 

世界が小さいということ、それは翻ってみると、世界が手のひらに収まるようなサイズであるという可能性でもあるんじゃないかしら。あたくしは、小さければ小さいほど世界をまじまじと見つめることができたし、両手で包むようなことさえできた気がします。

小さいということは、それだけひとつの「動作」が大きな意味を持つということ。反対に、世界が大きくなればなるほど、動きは小さくなるのかもしれない。けれども、それらは同じ動きで、同じ質量のもの。周りとの関わりあいかたによっては、小さいほうがよいということだってあるはずなんです。

 

ほとんど詭弁のような言い回しですが、実感というのはいつもそのようなものなんじゃないかしら。

 

 

ぼちぼち生きてきて、できることが増えたような気も、減ったような気もします。でも、よくよく考えてみると、やっていることは山奥で暮らしていたころからほとんど変わっていない。立って、座って、手を挙げてみて。その動作の大きさだけが、意味合いだけが、相対的に変化している。そんなふうに感じます。