山でおどってきました。

せんじつ、静岡の笹間というところでおどってきました。

取り扱い作家であるところの坂爪康太郎が山奥の釜で三日三晩火を焚き続けるというので、なんとなくおもしろそうに思っていってみたのでした。坂爪とあたくし、そして写真家の大崎えりやの3人はTEAM MASKという間の抜けた活動を数年にわたってぽちぽち展開しています。

数人の人手でずっと火の番をしながら器やなにかを焼き締める作業をしている中にぽつんと混ざりこんで、マシュマロを焼きつつTEAM MASKとして仮面をかぶっておどってきました。

TEAM MASKの活動はシンプルです。坂爪が仮面をつくり、あたくしがそれをかぶっておどり、大崎が写真におさめる。
それぞれがやりたいような方向性でなんとなくつづいているようなかたちで、今回もそれに近いものでした。

さて、おどりながら写真について考えました。
正確にいうと、撮られるということについてよく考えました。

写真を撮られるとき、あたくしには大きく2つのモードがあります。
おどるモードと、被写体を演じるモードです。

おどるモードのときは、おどります。ひたすら、写真映えやなにかを気にせずおどります。ただ、お客さんがいたりする、あるいは客としての写真家が想定されるときは「見られるおどり」になるし、そうでない場合はたぶん「純粋に」おどっているでしょう。実はこの違いもかなり大きいと思いつつ。

被写体を演じるモードのときは、出来上がるであろう写真自体の構成に準じる形で立ち振る舞います。そのとき、おどるとか、自分の感覚はぜんぜん関係ありません。もしかするとモデルさんの仕事に似ているかもしれません。

どちらのモードもそれなりにそれなりだと思いますが、どちらのモードが求められるのかということは撮られる前に意識がいるなあとあらためて思いました。おどるきもちで写真の構成については考えられないし、写真映えを気にしつつおどることはあまり適切でない気がします。

写真を撮るという行為はおもしろいもので、現実しか写せないはずなのにフィクションをつくりだしたり、表現の形式として成立します。たとえば広告やなにかの写真を撮るとき、なにやらすごいアートディレクションで空想の世界が広がっていたりします。しかしながら、あれは広告であるということはほぼ100%了解されているので、撮られているのは広告というフィクションです。

写真家が「おどりを撮ろう」とおもうときにはあたくしはおどるべきだと思いますが、たとえば「山奥の集落で異形のものが舞っているような写真を撮ろう」とおもっているときに、あたくしはおどるべきではないとおもいます。そういう写真と、実際におどることは必ずしもイコールでつながらないからです。

そういったときは、ちゃんとしたアートディレクションがいるし、そのつもりで振る舞うことのみが肝要で、単におどることは無視されるべきではないでしょうか。

写真にフィクションを入れこもうとするとき、あるいは、理想の写真といったものを「つくりだそう」とするとき、写真は現実から離れて創作となるでしょう。そうした創作の果てしない欲望を了解しつつも、写真を撮るという行為の持つ現実との地続きな感覚をすっぽり漂泊してしまう気もして、馴染めないかんじもします。

けっきょくどっちがいいんだってはなしでもないのですが、どっちをやろうとしているんだろうねっていうのはやっぱり事前に了解しておくべきだよなあと思ったのでした。

ところで、静岡出身の子に「笹間にいってきたよ」っていったら「どこ?」っていわれました。マイナー。