赤ん坊のための舞台作品──ベビードラマの可能性

「ベビードラマ」という言葉を聞いたことのあるひとは、まだあまり多くないかもしれません。一言でいうと、「赤ん坊のための舞台作品」ということになるでしょうか。

ここさいきん、世界中のアーティストたちが、こぞってそういった作品をつくっているといいます。生まれたばかりの、まだ周りと自分との区別もついていないような赤ん坊に見せる作品たちです。

あたくしはベビードラマに、これまでの児童演劇とは、ちょっと違った趣を感じています。理由のひとつは、これまでよりも明らかに対象としている年齢が低いこと。もうひとつは、児童演劇にありがちな押しつけがましい道徳感や、わかりやすい教訓などがいっさい感じられないことです。

ベビードラマで対象とされる年齢は、生まれたばかりの赤ん坊から、せいぜい3歳くらいまでです。つまり、親と赤ん坊がほとんど分離していないので、多くの場合、親子が一緒に見るような形式をとります。舞台もフラットであったり、少人数の観客だけで行われたりします。作品によって形式はばらばらですが、親と子が一緒に見るためのさまざまな工夫が凝らされています。そのため内容も、大人の鑑賞にたえうるものでありながら、音や光、色などを効果的に使って、赤ん坊の五感に訴えかける作品が多いとされています。

では、どうしてそのような舞台作品が、いまつくられているのでしょうか?

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理由はいくつかありますが、あたくしはそのひとつに、「赤ん坊が予期しえないもの・未知なものに出会う機会を失ってしまった」ということがあるのではないかと思っています。あたくしたちの住んでいるまちは、とてもきれいに整備され、住みやすいようにデザインされています。特にこどもを育てるなどといったとき、みんながこぞって「住みやすいまち」へ行こうとするのを、あたくしはたくさん見てきました。そうした結果、赤ん坊は「住みやすいまち」としてデザインされたがゆえに排除された「予期しえないもの・未知なもの」に出会う機会を、まったく失ってしまったのではないかと思うのです。

まちのことだけではありません。あたくしたちは特に、こどもということになると、すぐに「予期しえないもの・未知なもの」を排除しようとします。「どういう影響が出るかわからない」し、「未知なものはこわい」からです。もちろん、危険なものからは守ってやらなければなりません。ベランダを開けっぱなしにしてはいけないし、車に置き去りにするのもいけません。ただ、危険なものを排除することと、未知の可能性を摘んでしまうことはイコールではありません。

こどもにいろいろな経験をさせてあげたいといったときに、それは親の嗜好なり、願望なり、社会的立場なりといったものに左右されます。しかしそうした選択は、こどもにとって未知であるでしょうか、親にとって未知であるでしょうか。こどもに手渡す前に、親が検閲をしていないでしょうか。

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舞台とはまさに、(ある程度の)安全を保障された「予期しえないもの・未知なもの」なのです。

このとき、親にとっても未知であり、予期しえないということがほんとうに大切なのです。なぜなら、生まれたばかりの時期というのは、親であるそのひと自身も赤ん坊だからです。親のひと自身が驚いたり、わからなかったり、心地よかったりすることがとっても肝要なのです。そうでなければ、どんな体験もからだの半分だけのものになってしまいます。赤ん坊を見ると、とにかく赤ちゃん言葉になってしまうひとがいますが、赤ん坊は世界と分離していないので、そうやって周りをすべてひとつのものとして体験するわけです。

意外なことに、親と赤ん坊が同じ立場で体験できるものというのは、世の中にそれほど多くはありません。あたくしたちは何でも知っていると思いがちだし、赤ん坊は何にも知らないと思いがちです。しかし、たとえばからだの体験などは、赤ん坊のほうがよっぽど豊かです。母乳の味をあたくしたちが覚えていないように、手のひらにしみる地べたの感触を忘れてしまったように、あたくしたちが何にも知らないことを、赤ん坊はみんな知っているというようなことがたくさんあるはずです。

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そうしたことがあって、ベビードラマという活動は、赤ん坊にとっても、親にとっても、大切な試みのひとつであるという気がしています。

写真は、あたくしが松山東雲女子大学の直井玲子さんと一緒に行っているベビードラマの実践研究です。「赤ちゃんのための習作」というシリーズをつくって、その活動の意義についてあれこれ考えています。日本でのベビードラマの実践はまだ歴史が浅いものですが、少しでも世の中に楽しいことがおこるように、あたくしも微力ながらお手伝いできればと思っています。