やってることしかできない

このあいだ、劇作家の岸井大輔さんによばれていっしゅんだけ学生のひととすれ違ったのですが、お散歩の合間のぽっかりとした空き時間にちょうどよく呼ばれたがために、ちょっとした説教おじさんみたいになってしまって非常に残念に思っています。

とはいえ、わりかし大事な問題があったなあと思い文章に残しておこうと思ったのでした(贖罪の意味もある。しらないおじさんから普通に指摘されることはすごくこわいので、あたくしのふるまいには申し訳なさをかんじている)。

 

「紹介したい子がいる」といわれてお話をしたひとは、第一に「演劇のプロデューサーになりたいです」といっていました。よくよく話をきいていると、ふだんはVtuberとして活動しており、サークルで役者などをやりながら演劇の勉強をしていますとのこと。

さいしょに「演劇のプロデューサーになりたいです」といわれてしまったので、演劇のプロデューサーになる方法について考えたり伝えたりしてしまったのですが、たぶん彼は演劇のプロデューサーにはならないだろうなあ、とあとから思いました。

 

なぜなら、彼はいま演劇のプロデューサーをやっていないから。

 

目標とか、将来なりたい像ってあんまりはっきりしていないことのほうが多いと思うんですよね。それよりもまず、なんとなく目の前にやることがあるし、ひびはたのしいことや面倒なできごとで覆われている。

そんな中で、「いままさにやっていること」それがたぶん向こう5年くらいは自分のやることになるんだろうな、といったことを思います。

いや、もちろん、5年後Vtuberがどうなっているのかは知ったことじゃないのですが、少なくともいまやっていることの延長にしか自分の未来はないだろうな、ということは素朴に思うんですよね。

 

自分自身、舞踏に目覚め、舞台の勉強をして、その延長で仮面に出会い、応用演劇と携わりながらビジネスの構造を知って、仮面屋をオープンして。まったくの一本線というわけではないものの、そのときどきで「やっていた」ことが繋がってきたのだという実感があります。

いつだって、自分がしっくりくるものや、いままさに自分自身にとって必要なことをやっているに過ぎないし、そうしてやってきたことでしかまわりは評価のしようがないじゃないですか。

 

あたくしも時折、楽器をやってみたらどうだとか、カウンセリングが向いてるんじゃないかとか、いろいろなことに浮気をしないではありません。けれども、そうしたことの「しっくりこなさ」や「コレジャナイ」感は、自分のからだがいちばんよくかんじていることなんじゃないかしら。(いや、もちろん楽器は楽しいし、カウンセリングの技術もとても大事だけども)

「演劇のプロデューサーになりたいです」といった彼も、きっと演劇にかかわっていきたいがゆえの現実的な選択肢として「プロデューサー」という言葉を見つけたのだと思います。けれども、その言葉で彼が語ったビジョンの曖昧さを見るにつけ、やっぱりあなたはいまVtuberなんじゃないかな、と思ったんですよね。いや、それこそ役者なのかもしれないし、演劇とはぜんぜん関係のない何者かなのかもしれないけれども。

 

 「なにか新しいことをはじめたい」という欲求はいつでもだれの中にでも潜んでいて、そうしたことが次の行動への火種になることもあると思います。けれども「なにか」ってなんだろう。新しい分野に飛び立つ前に、目の前にたのしくやっていることがあったんじゃないかしら。そんなふうに思った出会いでした。

 

ところで、こんなことを書いたあとで、彼が5年後に界隈に名をとどろかす演劇のプロデューサーになっていたらめちゃくちゃおもしろいので、ぜひなってほしいな。