腰の曲がったおばあちゃんを美しいと思うとき。

ダンスのレッスンなどにいくと、初学者は、よく「もう少し骨盤を立てなさい」とか、「もっと足をまっすぐに」といったことをいわれます。

 

これは、そのほうが「美し」かったり、おどりとして「優れている」という基準がはっきりとなければ出てこない言葉です。つまり、多くのダンスには「正しい形」というものがあり、どうも、それに倣うことが最善であるといった価値観が一般的であるように思います。

 

むかし、知り合いのバレエのダンサーに尋ねたとき「バレエには「正しい形」というものがある」とはっきりといっていたことを思い出します。バレエというおどりはかなり厳格であるらしく、そのようにいってもよいほどある種の「型」といったものがはっきりとあるようです。

 

確かに、超人的な「型」を体得したひとのおどりは目を見張るものがあるし、一般的に言って「美しい」というのは、それほど否定するべくもなく事実であると思います。とはいえ、あたくしのような舞踏家にとって気になるのは、その「型」に出会う前のからだは果たして美しくなかったのか? ということです。

 

 

あたくしはよく、腰の曲がったおばあちゃんなどを見て、「かっこいいなあ」と思うことがあります。ご年配の方の背筋のすっと伸びた姿もよいものですが、きちんと歳をとられて、ちゃんと腰が曲がっているという姿も、それはそれで素敵なものです。

腰が曲がっていると、たしかにからだに負担だし、それが原因で不調が出ているという場合もあるでしょう。しかし、「腰が曲がっている」というそのひと特有のからだは、そうしたかたちや動きになるまでの歴史をいかにも感じさせ、なんとも素敵だなあと思うことがよくあります。そうしたことを、やれからだが歪んでいるだの、みっともないだのというようなことには賛同しかねるし、単に盲目的に思えます。(もちろん、たとえば腰が曲がっていることによる不調や弊害を放っておけという話ではない)

 

 

「八月の狂詩曲(ラプソディー)」という、黒澤明の映画があります。
あたくしはこの作品がたいそう好きで、とくにラストシーンがなんといっても最高だと思っています。

痴呆症のおばあちゃんが、嵐の中、衝動的に走り続ける姿は大野一雄を彷彿とさせる美しさです。このおばあちゃんは首が落ちてこんでおりやや腰が曲がり気味で、いかにもステレオタイプの「おばあちゃん像」をうまく表しています。そうしたおばあちゃんの単なる美しさを認め、賞賛し、その滑稽さも含めて映像化する黒澤明の手腕は見事というほかありません。

 

 

そうした視点に立つと、日々の生活の周りにもおどりがあるような気がするし、なんだかおどりとか関係ないようなところでも、よいからだというのはいっぱいあるなあという気持ちになります。もちろん、バレエを含む「型」のおどりを否定するわけではまったくありません。ただ、やみくもになにかを吸収しようとする前に、ひとまず自分のからだに立ち返ってみると、案外自分のからだもいいものだなあ、なんて思ったりして楽しいこともあるんじゃないかしら。

 

そういうふうに、今の自分をただ受け入れてみることから、おどったりすることは始まるのかなあ、なんて思いもあります。

 

みんなもっと、自分のからだを好きになるといいよ。

 

 

 

※「型」を反復することによって自分のからだに立ち返ることはできるし、そうすることでより自由になるという一般的な考え方をあたくしはむしろ支持します。

 

大川原