触れ合わないことから

舞踏家を名乗っているにもかかわらず、「踊っているところを見たことがない」とよく言われます。

それもそのはずで、あたくしはおそらく同時代のダンサーに比べて、人前で踊ることが極端に少ないのです。あるいは、常に踊っているともいえますが、ややこしくなるので今日はそういう話はしません。

 

あたくしにとって踊るということは、ずいぶん前から極めて個人的な活動でした。

 

そもそも、自宅の部屋でひっそりと動きのパターンを学習することから始まった踊りの活動が、いわゆる「舞台」へと移行し始めたのは大学に入ってからでした。舞踏家を名乗り、それなりにいろいろなステージに立ちましたが、「作品をつくること」や「劇場に赴くこと」への違和感はいつまでも拭えないままでした。最初から、あたくしと踊りの関係は個人的なものでしかなかったのだと思います。

 

それでも、さまざまな「ダンス作品」を見ては憧れもしたし、いまだにお仕事で舞台の演出や振り付けはたびたびしています。けれども、やはりどこか気持ちの折り合いのつかないことがあります。

踊るということと、演出をすること、あるいは振り付けをすることはそれぞれまったく異なる行為です。それらを作品として人に見せる形にまとめ上げることは、おそらくあたくしの関心ごとではないのです。

 

あたくしは、からだのことをよく考えたいし、それを使ってできるだけ長く遊び続けたい。さいきんはずっと重力のことを考えていますが、それらを「作品」という形式で発表するよりも、もし関心があればたんにシェアをしたい。考えていることを話し、実行し、おもしろければ一緒に遊びたいと思っています。そのために必要なのは劇場でも作品でもなく、空間と暇な時間くらいなものです。

 

もちろん、劇場やダンス作品をつくっていることを否定するつもりはまったくありません。むしろ、あたくしも素晴らしい作品をたくさん見たいし、劇場ももっと盛り上がってほしいと思っています。

 

けれども、あたくしにとって、舞踏家としてだいじなことは、そういった作品の中には見つけづらいことなのかな、と思っています。

 

 

集団で踊るスペクタクルな舞台に憧れます。たぶん、ぜったいにやらないからこそ。

 

ひとりで踊ることしかできないので、場所や時間に困ることはありません。

 

誰とも触れ合わないので、見たり、見られたりすることがありません。

 

ただひとりでひっそりと踊ることには、たぶんそれでも、意味があると思います。あたくしの関心ごとは常に「小さな出来事」の中にあります。触れ合わず、共有せず、何も起こらず。それでも踊ること、踊り続けることが肝要だと思っています。

 

もちろん、たまには人と触れ合いたいときもあります。